自惚れでなければ、俺がこうすることでセリーにはひどく悲しい思いをさせるかもしれない。まずそのことを謝る。
でもやっぱり、いくら考えてみてもほかには道はなかったと思う。
誰だってそうすると思う。もちろんセリーだって誰かがそういう状態にあり、自身が救える術を持っているのであれば手を差し伸べるはずだ。これはその延長だ。
さて本題に入るけど、セリーの体は自身の神秘によって蝕まれ、今その生命を脅かしている。
ギリギリまで隠した手腕は見事としか言いようがないけれど、今後はキツくなったらちゃんと周りに伝えること。君は良くも悪くも、周りの人に頼ろうとしないからな。
仲良くしている人には、重石は貸し借りしていいということを覚えておくといい。
これを機に周りを信用してみよう。フィオとかおすすめかな。
まぁ、早期に見つけたところで、治す手段はやっぱりこれしか無いんだけど。
あと、前に一緒に学園へ行こうって話をしてたと思う。あれ、俺はまだ諦めてないんだ。もし生きていたらそうだな、話してた中で一番良さそうなフラムなんとかってとこに行こうと思う。
セリーももし良かったら行ってみるといい。
あ、でもちゃんと孵化を迎えてからにするんだぞ。教えた魔法や、渡した剣の使い方もちゃんと身につけてからにするんだ。でも技や魔法の名前を俺が教えた文字にするのは、注目引くからやめような。
言うまでもないけどフェリクルは孵化を迎えないと体は成熟しない。八歳までの我慢だ。
前述にもあるように、フィオも誘ったら良い。もうフィオは俺の手を離れて、独自に魔法を学んでいるほどにまでなっている。ひょっとしたらセリーより強くなるかもしれないぞ。
そろそろ行も少なくなってきたけど、言いたいことは三つ。まず生きて欲しい。強く生きて欲しい。セリーが俺に生きたいって言ったときのあの表情は一生忘れない。
次に、この世界を見て欲しい。きっとまぁ、生きててよかったと思える時がくる。それは景色だったり感動だったり友人だったり、様々だ。
次に、北西の森には絶対に行かないこと。これは絶対に守ってほしい。
あと、俺が――――ということは秘密にしておいてほしい。いや俺は良いんだけど、こんなのと知り合いってなると色々と面倒なことになると思うから。
四つになってしまったけど、まぁ悔いの無いよう生きて欲しい。
俺はこれで悔いはないから。セリーの思うように生きて欲しい。
――レイゼスの手紙より。
どこまでも広がるなだらかな草原を馬車が過ぎていく。
魔物避けの柵を設け、草を覗いただけの簡易な馬車道は、恐らく作成されてからろくに整備されていない。
簡素な馬車はガタガタと揺れており、客車の中の乗り心地が良くないことは想像に難くない。
馬車道の外は一本角のあるサイのような動物が数匹の群れで点在し、横になっていたり走っていたりと思い思いに過ごしている。
成人男性の膝くらいはある草が、広くそよぐ風でたなびいた。
その風にのって何かの綿毛が飛んでいく。それを追う視線が一つ。
「おぉ、もうそう言う時期か」
御者台に座っている男がつぶやく。帽子を目深に被っているため表情は読み取れないが、その声は努めて明るく、柔和だった。
「そいや、聖都行きの若いガキが二人いたなぁ。どっちも女だったか。ありゃ学園志望だな」
男が気だるそうに呟きながら手綱を持つ。その手は日焼けして浅黒くなっていた。
「どっちもべっぴんだったが、一人はちんちくりんだし、やっぱり断然銀髪の方だなぁ。胸もデカかったし……っとと、女房のフライパンがまた飛んでくらぁ」
けど機会があれば、と妄想するのは男としては当然だろうか。
客車の中には数人の男女が段差をイスとして座っていた。
一人は誰から見ても同じ感想を述べるであろう美少女だ。
長い銀髪は一本一本が輝いているかのような艶めきがある。前髪は片方が長く、左目を覆って顎の横あたりまで達していた。
長い銀のまつ毛を添えた黄金の目は、外の景色に注がれていた。白磁の肌、結ばれた薄桃色の唇、銀の髪と黄金の目が太陽の光を受け、燦然ときらめくその光景は芸術作品のような幻想と美しさを持っている。
体勢を変えるために僅かに身じろぎすると、腰に提げた片刃曲剣がイスに当たって音がなる。
「ん……ぅ……」
その音は客車では少し大きかったらしい。銀髪の美少女の傍らで横になっていた人が起き上がる。
「……ぁえ?」
短い金髪は寝癖がついたのか少し跳ねている。鋼色の目は半開きで、まだ夢のドアを閉じきっていない。
小さな口からは透明な涎が少し出ていた。
背は小さく、身体もまるで子供だ。だからこんな簡易なイスでも横になれたのだろう。
およそ、隣りにいる銀髪の美少女とは真逆と言うべき容姿だった。
私と同じ年齢とは思えない抜けた声だ、と傍らの美少女は胸中でつぶやく。
癖だろうか、前髪に留めてある雪の結晶を模した髪留めを撫でた。
「ぅあ……セリス、いまどこぉあぅああわわぁ〜?」
「……あくびしながら言わない。フィオはそろそろ子供を卒業して」
「ん……ぅあ〜。学園についたらぁ卒業するぅ」
再びぼふっと横になる。背伸びをしたり丸まったりと忙しなく動いた。
「あんたら……よく酔わねぇな」
一連の流れを見ていた大柄な男が口を開く。ちょうどセリスと呼ばれた銀髪の少女の向かいに座っている。
動きやすい軽装鎧に片手剣。短く切りそろえられたブラウンの髪。右頬に古い切り傷が目立つ。
「…………」
セリスは硬直していた。
あまり、いやかなり他人との会話に慣れていないらしい。
「あー、あんたみたいな別嬪なら警戒すんのも当たり前だが、俺ァこの馬車の護衛だ。ほれ、見てみろ」
そう言って投げて寄越したものは長方形のプレート。マナを練り込んだ銀製のそれを覗くと「リギン・ルカロ」と言う名前がまず目に飛び込んでくる。
「第五……霊梯」
「あぁ、俺は学院行く金無かったしな。イチからクラン入ってコツコツやってんだよ」
「ん……」
「あー、知らねぇのか? 聖都に行くんなら学園行くんだと思ってたが……」
「……ん」
参ったな、とリギンは短い髪を掻きむしる。反対の腕をセリスに差し出して催促すると、僅かな硬直の後に白く細い手に持っていたプレートを渡した。
「んまぁ帰りのついでに受けた依頼でよ、別に危険なことはねぇ。お前さんも寝てな」
リギンはそれだけ言って、帰ってきたプレートを首に下げて顔を外に向けた。
「…………」
セリスは小さく息を吐き、再び車窓の外に思いを馳せた。
ガタガタと揺れ動く馬車の中で、リギンの装備の擦れる音だけが響く。
時折大きく揺れ、その度に辟易した表情で悪態を吐く。
「なぁ……嬢ちゃんたち」
「……?」
外に向けた顔はそのまま、視線だけをリギンに向ける。
「それ、魔法……、だろ?」
ゴツゴツした皮膚の硬い指が指す先は、全体的に青を基調としたセリスの服――の下半身側。
プリーツのスカートから伸びる新雪のように白い太腿を、薄手の白いサイハイソックスが覆い隠している。
美を損なわない適度な肉付き、流れる脚線美にリギンは僅かにどもってしまった。
「…………」
「あ、い、いや、すまねぇ! 俺が言いたいのはだな!」
指した指を少し下に下げる。正確に言えば、スカートの奥――いや下か。
「浮いてる……よな、おまえら」
言われてみればセリス、フィオの二人は完全にイスに触れていない。数センチほど上に浮いており、ある程度の揺れが起きても微動だにしない。フィオなんかは気持ちよさそうに寝ているくらいだ。
「……ただ浮いてるわけじゃねぇよな? 昔おんなじのやろうとした奴が後ろの幌に突っ込んで破って弁償してたぜ」
面白おかしく幌を指差して破ける動きを手で再現する。
「…………」
だんまりかよ、とリギンは口の中で悪態を吐いた。
「(田舎モンの人見知りだろうけどなぁ、もうちょっと他人と会話できねぇかな。キレーな顔してるし田舎の箱入りがなんやかんやで出てきたってとこか。学園もフラムウェルツ辺りだろうな)」
そんな風に勘ぐっていると、セリスの薄桃色の小さな唇が僅かに開く。
「……ず、ずっと、浮遊と移動を、繰り返して、る」
馬車の音でかき消されそうな小さな声だが、リギンには聞き取れたようだ。
「あ? そんなこと出来るのか? 少なくとも乗って一月以上経つが、乗ってる間中出来るもんなのか?」
魔法を維持には精神力を必要とする。確かに高名な魔法師ともなれば長時間の維持が可能だろう。しかし、いまから学園に入ろうとしている若い人間が座っているだけとはいえ、ほぼ一日同じ魔法を維持し続けられるだろうか。
宝石に魔法を刻んだものでも常に変わる環境、浮遊する高さ、移動する量とそれを維持するのは自身だ。
「いや、まぁ世の中は広いからな。まぁいまのところは魔物も出ねぇし、疲れたら寝てていいぜ」
リギンはそれだけ言って胸の前で腕を組んだ。
「おーい!」
その声は客車の前から聞こえた。即ち御者台に座る馬車の主だ。
「なんだ! どうした!」
御者台に聞こえるようにリギンが大声で叫ぶ。
イノシシあたりが道を遮ってるのだろうと思い、立ち上がって御者台に近づく。
「……おい、なんだありゃぁ……」
「……亜竜種、藍色の、鱗。ここらじゃ見ないはずだぞ」
見た目は明らかに亜竜種だ。爬虫類の独特な眼は赤く、鋼の如き質感と光沢を持つ鱗に覆われた藍色の瞳。
幾百もの刃を重ね合わせたような牙を口腔に潜ませている。頑強な手足の先端にも同様、鉤爪があった。
飛竜なのだろうか、大きな翼を背中に持つ。全長は八メートルほどもある。
類を見ない事態だが、二人ともそれなりに今の仕事をやっていたため混乱は毒ということを知っていた。
討伐は竜種よりは容易だが、一介の冒険者では荷が重い。
「馬車道の外だが、通り過ぎることはできないな」
ゆっくりと減速して止め、様子を見る。
リギンが周囲を確認すると、動物が一匹もいないことに気付いた。いや、気配はある。かなり遠く、森の方に僅かに動物がいる。
「とにかく留まってちゃ危険だ。奴はこちらに気づいていない。引き返して一番近いラッツァまで戻ろう」
一も二もなく了承し、馬車を反転させる。
リギンは客車に入り、全員に聞こえるように大きな声で現状を伝えた。
「何故か知らんが亜竜がいる、一旦後ろのラッツォまで戻るぞ! 引き返すから何かに捕まれ!!」
「わひゃぁ!」
大きな声にフィオが飛び起きる。開いた口から涎がこぼれた。
他の乗り合わせた人たちがめいめいに取手を掴む最中、このセリスとフィオだけは何もせずにいた。
やがてぐるりと視界が回る。がたがたと音が響き、また馬が走り始めた。
「な、なにぃ?」
なんとも脳天気な声が客車に響く。この非常事態にこいつは、とリギンは思ったが、世間知らずだからと押さえ込んだ。
「この地域じゃ見たことない魔物が出やがった。いなくなるまでラッツォで待機するぞ」
リギンの説明を聞いて、奥の方に座り込んでいた商人風の男が口を開いた。
「なんだと! 俺はグリフティルで大事な商談があるんだ! 間に合わなかったらどうしてくれる!!」
「文句があるならあそこの亜竜と喋ってきな」
護衛の経験はそれなりにあるリギンには、こんな事態も当然あった。特に苛立つこともない。
「何のための護衛だ! 仕事をしろ!」
商人らしき男は尚も反発し、リギンを急かす。
「見たとこヴェルグレシオより厄介そうな相手だぜ? 一人で倒せるんだったら第八霊梯――到達者並みの実力が必要だ。俺はしがない第五霊梯、いい加減事態を把握しろ」
「この商談は俺の人生がかかってるんだ!! 貴様がどうなろうと関係ない!!」
時間稼ぎぐらいならできるかもしれない。が、魔物の危険度が分からない以上は実行は無理だ。
「どんな商談か知らねぇが」商人の胸ぐらを掴み上げ、ドスの利いた声で続ける「ご破算になってもお前の人生は続く。だがな、ここでくたばったら人生なんて跡形もなく終わるんだよ、俺も、お前も、みんなだ」
「…………っ!」
途端に萎縮して目をそらした。
「あれは……セリス、いける?」
「分からない。やってみないことには」
「半端なのは効かなさそう。僕は掩護に回らないと」
リギンと商人の会話が目立ち、二人の会話は他の人には聞こえていなかった。
引き返して戻っている。それ故に、今外がどんな状況かに誰も気づかない。
「足は……うん、速い。ただの突進でも僕らはぺしゃんこになっちゃうよ」
「そっちは任せる」
「大丈夫……って聞くまでもないか」
「調整は終わった。いつでも」
そういってセリスが立ち上がる。
立ち上がった瞬間にふわりと風が起き、銀糸の長髪が揺れた。
「おぉ……」
周囲の人たちが息を呑んだ。急に目に飛び込んできた、美という言葉を完結させたような容姿と顔立ちに目を奪われた。
誰もが見惚れる中、リギンだけが口を開く。
「おい嬢ちゃん、危ねぇから座ってろ。村までは――」
「来ている」
「あ?」
リギンの言葉を遮って短くそう伝えると、窓を指差した。
「すぐ、そこまで」
「なに言ってんだ。足音なんて――」
窓を見やる。瞬間――窓の外が藍色に染まり。
視界が弾けた。
空間が爆発した。そう言っても差し支えない音が轟いた。
死。
その言葉がリギンの脳裏をかすめた――が、何も起きない。
思わず身構えていた腕を下ろして周囲を見ると、みんな同じ様子で、頭を抑えて蹲っていた。
――二人を除いて。
「今のは四。十分だったね」
「ん」
短く応答した瞬間に白銀の線が走る。リギンがそう認識したそれは、目にも留まらぬ速さでセリスが移動した残滓だった。
気づいたときにはセリスは客車から出ていた。ただ、僅かな風だけが名残としてそよぎ、幌を僅かばかりにはためかせた。
「……何が、起きてる?」
呆然としながらそうつぶやくリギンに無邪気な子供のような声がかかる。
「僕の魔法で防いだよ。強くかけておいて助かったよ」
「は……?」
「村にあった魔法辞典を読んで覚えたんだ。セリスの【雹撃】を防げるよう頑張ったんだ……って分からないよね」
分かるわけがない、と思った。まず、亜竜が音もなく接近したこと、それを事も無げに防いだこと、そして一人で出ていったこと。
「セリスなら大丈夫。とばっちりは僕が防ぐから」
「いや、いやちょっと待て! 防げたのは分かった。だが、学園行こうとしてるガキが亜竜に勝てるわけがないだろ!」
「大丈夫だよ」
「根拠がねぇ! 何で勝てると思うんだよ!」
「セリスと僕には――追いつかないといけない人がいるから」
「はぁ!?」
「あの人だったら、あんな魔物くらいすぐに倒すんだ。だから、負けられない」
フィオの目は確かにリギンを見ていたが、視線はその奥に注がれているような気がした。
「あ、念のためしゃがんで」
そういった瞬間――轟音。
揺れはしない、壊れもしていない。ただ、フィオの放った防御魔法の残滓が薄く耳を撫でた。
「派手にやるなぁ」
「ゥゥゥゥルァァアアア!!!」
けたたましい咆哮が草原を走る。
近くで聞いたら鼓膜を突き破って気絶するほどの叫び。
巨体が僅かに身震いする。怒りに染まった眼に白い何かが落ちた。
「【雹刺】」
亜竜の雄叫びと比べればはるかにか細い、鈴の鳴るような声。
しかし、その言葉を口にした瞬間、セリスの右手に持った片刃曲剣が微かに明滅。
同時に亜竜の周囲から突然鋭利な先端を持つ氷の塊が出現。高速で藍色の鱗に迫る。
音もなく亜竜は身を翻す。いくつかは当たったが、傷一つつかない。
「――――――――!!!」
先程の咆哮よりかなり高い音。超音波にも聞こえるそれは――大きく開けた口腔内に形成された魔法陣。
「詠唱。ウルカヌス。射出、火炎」
セリスが目を見開いてつぶやく。驚きでも動揺でもなく、冷静に、静かに。
その間にも高速で魔法陣は形成され、臨界に達したように煌々と燃え上がる――が。
「【崩絶】」
その一言だけで、亜竜の口腔に生成された魔法陣が容易く砕け散る。
不発に終わった魔法陣から逃げるようにマナが飛び散った。
追撃の手を緩めない。セリスの持つ空色の刀身を持つ剣を強く握り虚空を薙ぐ。
空を斬った剣閃は不可視の刃となって高速で飛び、亜竜の右前足に激突。火花が飛び散った。
「刺突、斬撃ともに効果は薄い」
使用した攻撃の確認を行いながら有効打を思考する。
「ゥゥウウウルァァアアアアアアア!!!」
再度の咆哮。地面を抉りながら突進してくる。
亜竜種は竜種ほどではないが知能はある。そもそも知能がなければマナを操ることは出来ても魔法を扱うことは不可能だ。
口腔内で発生させた増幅魔法で体内の火炎を増幅させ、太陽表面に等しい温度を伴った業火で広範囲で焼き尽くす。その算段で紡いだ魔法があっけなく遮断された。
その後に接近せず、遠距離からの攻撃に徹したセリスを見て近距離での戦闘に移行した。
「――【晶覆】」
一瞬ごとに距離が狭まる両者の間に分厚い氷の壁が形成される。
「――――――――――!!!」
可聴域を越えた亜竜の鳴唱、がしかし――。
「ウルカヌス、球体、炎弾――【崩絶】」
やはり打ち消す。マナが崩れて霧散し、口腔からこぼれ落ちることも厭わず、亜竜は速度を上げる。
「保たない――」
セリスが身構えた瞬間――。
「ゥゥウウウルァァアアアアアアア!!!」
咆哮とともに生成した氷壁が粉砕。勢いは微塵も衰えず、セリスを粉砕せんと迫る。
セリスは後退することなく足に力を入れ――上へ跳躍。
「(これだけの巨体でこの速度――!)」
そこまで考えて、しかし撤回する。
――眼前に亜竜が迫っていたからだ。
「【雪華】!」
一瞬でラナンキュラスの花を象った氷を形成し、食い千切られる未来を変える。
二〇〇程もある鋭利な花弁が口腔に迫る――が、亜竜の頑強な顎は形成した雪華を容易く噛み砕いた。
周囲に砕けた花弁が散る中、セリスは土魔法と風魔法を駆使し、宙に足場を形成してさらに跳躍。距離を取りつつ思考を緩めない。
「(前足を軸に体を反転させて、頑強な後ろ足で無理やり体を停止。そのまま後ろ足で跳ねた。かなり機敏。接近戦は不利)」
そこまで考えて、異音が馬車道の方から聞こえてくる。
「大丈夫か!? 早く逃げろ……ってなんだこりゃ、雪か?」
視線だけ向けると、客車の中で話しかけてきたリギンが馬車から降りてこっちに来ていた。
「(馬車がなんで止まっているの? もう少しで――)」
「小さいガキ置いて戻れるかよ! それは俺の役目だ!!」
「――くっ!」
リギンから遠ざけるように跳躍し、着地。亜竜も飛ぶほどの余裕はなかったのか遠距離で闘う気はないのか、離れた位置に驚くほど静かに着地した。
「(馬車への突進もほとんど音がなかった。何かしらの魔法を使っている可能性。今となっては打ち消す意味はない)」
「嬢ちゃん! 俺が引きつける! 逃げろ!!」
邪魔だ、とセリスは胸中でつぶやく。一対一だからこそ可能となる分析が、部外者によって不可能となる。
「ルルウウウゥゥゥゥ」
機を伺うように低く唸る。されど眼窩の紅玉は怒りに満ちており、殺意は今もセリスを射殺すように放っている。
エサとしての認識ではなく敵として。ともすれば命を脅かす存在として、彼女を見ていた。
「(こんな時、――なら)」
これはセリスの呪文だ。この言葉を胸のうちにつぶやく時、セリスは魔法を超越した力を願う。
過ごしてきた過去を思い起こし、反芻し、嘆願する。
戦闘時にはけしてすることのない瞬き。しかし警戒は十分にしているため、亜竜が襲うことはなかった。
「――【晶覆】」
空色の曲剣、その切っ先を向けて放つ。狙いは――。
「ぐっ!? おい何やってんだ!!」
リギンの眼前に氷壁が出現。彼我を隔てる。
リギンは腕盾と片手両刃の鋼剣で壁を破壊しようとするが、ヒビどころか傷すらつかない。
「ゥゥウウウルァァアアアアアアア!!!」
芳香を置き去りに高速でリギンへと駆ける亜竜。
【晶覆】によるリギンの防御は結果的に悪手だった。リギンの存在を亜竜に知らせ、詠唱し発動するという隙を与えてしまった。
この氷壁は並大抵の攻撃は防げるが、先程の亜竜の攻撃では容易く破壊される。
「(間に合わない――いや、馬車が止まってるなら……!)」
セリーの黄金の眼が亜竜を捉える。己を害しようとする存在がもう一つ増えたことによる怒りか、セリスという敵との戦いを邪魔されたことによる憤怒か。
「【エーテルフェリクシオ】!」
思った通り、聞き慣れた声が耳朶を打った。
見慣れたマナの奔流がリギンを覆う。高密度過ぎて空気が歪んで見えるそれは最高位の無属性防御魔法だ。
「ゥゥウウウルァァアアアアアアア!!!」
號! と颶風を纏って亜竜が激突する。容易く打ち割られた氷壁同様、リギンも砕かれて地面の一部になってしまう――はずが、そうはならなかった。
「ガァァァッァアアアアアアアアァァアッ!!!」
轟音が響く。大地が揺れたと見紛うほどの音を伴って亜竜が弾かれた。
「こりゃ、反射の魔法……か?」
その場にへたり込んだリギンが顔面蒼白になりながら現実をつぶやく。
『セリス! 整ったの?』
フィオの声が響く。遠方にいるセリスにのみ極少数のマナを飛ばして会話を可能としているのだ。
亜竜にずっと視線を合わせて止まっていたセリスがゆっくりと剣を掲げる。それを合図に、フィオが魔法を発動した。
「【エーテルフェリクシオ】」
再度の反射の魔法。対象は亜竜の周囲、ドーム状に展開する。反射によるダメージでのたうち回っている亜竜はその反射膜に気づいていない。
『やって!』
フィオの声が聞こえてくるより早く、周囲がざわめいた。
「ふっ!」
セリスが空色の剣を振るう。斜めに、横薙ぎに、様々な角度から振るわれる剣閃は全て一点に集約する。
「氷霧による温度低下、魔法陣の隠蔽設置、周辺環境の掌握、最適な発動環境の構築完了」
先程から降り注いでいた白い粒、即ち雪が吹雪に変わる。
振るう刃が地面をかすり、凍りついた草を粉砕。粒子のように飛び散る氷が更に周辺を凍りつかせた。
落ちる雪を切り裂くように振るわれる刃。その様はさながら剣舞の如く。
一頻り必要なマナを雪に変換し終えたセリスが、最後に空を切り上げる。そのまま留めることなく柄から手を離した。
円弧を描きながら空色の剣が宙を舞う。それが頂点に達し、重力によって落ちていく最中。
――亜竜が魔法陣に埋め尽くされた。
落ちてきた剣の柄を右手で掴む瞬間に、セリスの眼前にも魔法陣が出現。それを流れるような動きで薙いだ。
――刹那、亜竜の動きが止まる。
封印するかのように氷結する。
息の根を止めるように停止する。
「――四伝【絶晶】」
パキ、とヒビの入る音。一つ聞こえたすぐに、二つ、次に四つと連鎖的に亀裂が広がり――氷結した亜竜が砕け散る。
本来ならば、対象が粉砕した際に飛び散る氷片が周囲の敵を巻き込む範囲攻撃となるが、フィオの【エーテルフェリクシオ】によって反射。飛び散っった氷片が再び亜竜に突き刺さる。
血すらも凝固し、紅々とした氷が周囲に散らばる。
「ガァァァッァアアアアアアアアァァアッ!!!」
そう短くはない間、亜竜の絶叫と氷の砕ける音が響いた。
やがて氷霧が晴れ、残ったものは――。
「まだ生きている! リギンさん危険だ!!」
フィオが叫ぶ。その声に飛び出しかけていたリギンが止まり、亜竜を見た。
鱗は所々割れ、欠け、剥がれている。だが致命傷には至っていない。
右目は潰れ、双角のうち左角が割れて足元に転がっている。
だが亜竜はまだ健在で、目の前の敵を屠るという意思は潰えていない。
「……いや、俺が行くッ! 弱っている今なら――なッ!?」
リギンが駆け出そうとした瞬間、視界の端にいたセリスが線になる――全く同じ姿勢で。
「なんだあの動き……」
一足で彼我の距離を縮めるセリスに呆気を取られていると、フィオが口を開いた。
「特殊な歩法らしいです。筋肉とか重力とかを利用して動くんだとか。でもセリスはまだ半人前で、魔法によって補助しているんだけど」
言ってるうちにセリスが亜竜へと接近。
腰だめに構えた剣に力を込め――一閃。
「――始伝【葬霆】ッ!」
振るわれた剣閃がブレる。錯覚ではなくそれは、セリスが魔法に酔って生み出した極薄の刃だ。
普通に振るった斬撃では鱗を斬ることは出来ない。なら威力を上げればいい。
本来【葬霆】とは必中の速度で複数の斬撃をぶつける技だが、今回は全ての斬撃を同じ場所に集約した。
「グルゥゥゥアアアア!!!」
しかし亜竜は待ち構えていたらしい。セリスの狙いである左前足を振り上げ、セリスの頭上に叩きつける。
「――――ッ!!」
空振りしたセリスの剣閃は、しかし止まること無く動く。
片足を軸に超速で一回転し、踏み込み――頭上へ伸びた。
切り裂く。肉が裂け、血が噴出し、赤黒い内部が顕になる。
骨を砕く。剣閃は尚も伸びる。剣先に触れた亜竜の指が弾けるように飛ぶ。
「――――――――――!!!!!」
けたたましい咆哮が空間を叩く。
限界だと判断したらしい。セリスは一瞬で剣を引き、血の軌跡を残しつつ後退した。
尚もセリスは追撃の手を緩めない。黄金の目が輝き、魔法を発動。
「【雹棘】」
セリスの周囲に現れた氷の棘が亜竜を襲う。潰れた左目や先ほど切り飛ばした指に向かって飛ぶそれを身を翻して回避。鱗に当たり、大したダメージにはならない。
「ゥゥルルゥウウウウ……」
今までとは違う呻くような鳴き声。
瞬時にセリスは状況が変わったことを感じ取る。
「空が……!」
朱い。夕焼けとは違う、朱の色。
熱が周囲を多い、空間が歪む。
ごく一部の魔物が使役すると言われる、天候を変えるほどの魔法だ。
セリスは戦闘中、恒常強化魔法のほか、常に氷による防御魔法を展開しているため炎の耐性はある。しかし、馬車にいた人たちやフィオはそうではない。
「――――――――――――――――――――」
朱空に浮かぶ亜竜が口腔を露出し、詠唱を始める。
「ッ!! フィオ!」
セリスは馬車の方向に疾走。隠れていない右目が煌めき、魔法を紡ぐ。
「セリス!」
フィオはすでに用意していたのだろう。右掌をセリスに向かって掲げ、何かを放った。
「僕のでも限界がある! 外に展開して!!」
フィオからの投擲物を受け取ったセリスはそれを握りつぶす。ぱき、と薄いガラスが割れるような音と共に周囲に光が飛散した。
「――【晶覆】!」
セリーの展開と衝突はほぼ同時だった。
炎弾が無数に、雨のように降る。
灼熱が巨大なレンズ状に形成された【晶覆】と衝突する。
防ぐことができたのは最初の数発だった。
粉砕された氷の壁が溶け、粒子となってマナへと帰す。
足りない。
セリスは直感的に理解した。自分だけなら防げるだろう。しかし、回避と防衛に専念する必要があるため弾いた先を心配する余裕はない。
フィオに分かるように剣を一振りし、炎弾を受ける体制を取った。
「【エーテルフェリクシオ】!!」
三度の詠唱。その声を聞いて、セリスは後ろを振り向くことはしない。
ただ後ろに形成された高密度のマナを感じ取り、持つ剣に力を込める。
「――ッ!」
自分の身長ほどもある炎弾を躱し、受け、魔法を込めた片刃曲剣で斬り飛ばす。
周囲が焼け、抉れ、クレーターが出来ようとも関係ない。
破裂、破砕、粉砕、爆砕。耳を劈く轟音が視界を染め上げる。
それら全ての死の手先を紙一重でやり過ごし、一心不乱に生き延びることだけを考える。
熱風により急激に上昇する周囲の温度に反し、セリスは冷静だった――のは最初だけだ。
次第に斬り落とすことをやめ、回避に徹するようになる。
炎弾の一部の軌道が、セリスの長髪の上にある。
「ッ!!!」
急激に旋回。軸足の悲鳴を無視して躱し、その先の次撃を受け流す。
「――ぁぁぁあああ!!!」
絶叫と共に魔法が発動。【雪華】を多重発動し、周囲に置く。
分厚いガラスが砕け散る音の最中、前髪の髪留めに手を触れた。
「大丈夫、大丈夫」
一瞬、ほんの刹那の間、意識を預ける。まだ立っていられるだけの意識だけを残して、今はいない彼を想う。
すぐに目蓋が開き、黄金の双眸が覗く。
「こんなところで……」
酷使した体を疲弊したマナで奮い立たせる。右手に持った剣を空に掲げ、朱い空を睨んだ。
「死ねない」
半ば粉砕した【雪華】を爆散させる。砕けた氷片が周囲の熱を奪って蒸発していく。
爆散の余波で降ってきていた炎弾の幾つかは破砕。球一つ分の隙間で次の詠唱を行い、前進していく。
相手は天候を操る。マナの操作量はセリスとは比べるべくもない。
恐らくこのまま炎を降らせ続けて殺すのだろう。
「…………」
進む。炎弾を掻い潜りながら、時には避け、弾く。
魔法を使うことは自分の居場所を知られてしまう。ただひとつ、空中にいる亜竜を貫くために温存するべきだ。
抉れたクレーター状の段差を利用し、踏み込んで加速。
低空で飛ぶように移動し、迫りくる炎弾から逃げる。
失速するとまたクレーターに足をかけ、再度の加速。
繰り返すこと数度。ようやく炎の弾雨の外へと行く。
「(位置特定――)」
目を見開く。黄金の目が淡い輝きを灯しながら空を見る。
「――そこ」
地に魔法陣を生成――すると同時に炎弾が止む。
「――――――――――――――――――――」
亜竜がセリスに気付いた。軌道を修正し、セリスを狙ってマナを紡ぎ出した。
――だが、詠唱はセリスのほうが速い。
セリスの持つ目は特別製だ。マナを操作し、瞳の中で詠唱が可能になる。
「【天穿――」
持つ蒼刃の剣に力を込める。これほど大掛かりな魔法はさすがに剣の補助を得る必要があるらしい。
蒼刃が振られる。軌跡に淡い光が舞い、地面にあった魔法陣に触れる。
「――空凪】!」
――瞬間、巨大な渦が発生。
驟雪を伴って現れた颶風は周囲の温度を急激に下げながら急速に成長。遥か上空の亜竜をも覆い、驟雪が強度を増し、驟氷となって亜竜を襲う。
しかし効かない。高速で飛来する氷片は当たる端から砕け散り、傷一つつかない。
――だが、本命は別だ。
颶風の発生源が急速に氷結する。そのまま竜巻が凍り――巨大な氷槍となる。
そして――。
「――ガァァァァァァァアアアアアアアアアアアア!!!」
凄まじい勢いで颶風の中から伸びたそれは亜竜の腹部を抉り抜いた。
そのまま吹き飛ばす――かと思いきや、半ばで折れる。
亜竜の熱で溶けた氷槍が抜け落ち、地に落ちて砕ける。
「――――――――――――ッ!!!」
知覚できないほどの咆哮を伴いながら上空を飛び、セリスから遠ざかる。
点になる亜竜を眺めながら、セリスは倒れそうになり――剣を杖代わりにして耐えた。
「……彼なら、このくらいじゃ」
よろめく体を奮起し、自身の足で立つ。ゆっくりと周囲を見渡して、もう来る気配がないことを確かめた後にゆっくりと剣を鞘に収めた。
「セリス!!」
背後から声。フィオだ。気づけば馬車とはかなり離れた位置にいた。
亜竜の炎弾によって地形が変わった草原を慌ただしく走ってくる。
「だいじょうぶ!? 治癒したいとこ、だけど、ぼく、も、げんかい、でっ……」
肩で息をするフィオは疲労の色が強い。あの炎弾の中、ずっと馬車を保護していたのだ。
「私は、いい。そっち、は?」
「なん、とか。馬車も、のってる、ひとも、ぶじっ」
セリスが引きつけてくれたおかげだよ、と続ける。
「よかった」
その声が驚くほど柔和で、フィオは一瞬呼吸を整えることを忘れて息を呑んだ。
日の当たる溶け始めた雪のような柔らかさと暖かさと、少しの冷たさを伴った表情だ。
「守れたんだ。あの人のように」